ロックンロールに蟀谷を

ここは墓。現在のブログは https://blog.oika.me/

才能の有無と食っていけることって直結してるだろうか

才能のない子にどうやって美術への進路を思いとどまらせるか

まず、ちょっと本題とは違う部分かもしれないけれど。

ぶっちゃけると、週数時間の授業で創造的な活動をしたところで、目覚ましく心が豊かになったり感性が育ったりはしない。そういうのを求める子は自ら選ぶ。じゃーあのクソつまらん課題はなんのためにあるかっつーと、単なる才能発掘の手がかりにすぎない。

これは違うと思うなぁ。
学校のカリキュラムに芸術教科がある理由は何なのか。ざっと考えただけでも↓これくらいはある。

  • 生きていく中でできることが増える

視覚世界の対象をスケッチによって平面上に表現できる、木材を切ったり削ったりして実用的な道具にできる、そういう体験をすることは普通に有益だ。

  • 興味・関心の世界を広げる

学校の授業で見た名画、聴いた名曲に衝撃を受けて、すっかりその分野にはまってしまうケースだってままある。また、遠近法やフーガといった技法を学ぶことで、普段接する漫画やポップ・ミュージックに対する見方も変わるかもしれない。

  • 教養として

モナリザムンクモーツァルトくらい教養として接しておいても損はない。

  • 成長の記録として

子が小学生のときに作った作品を、親が10年先まで飾っている家庭だって珍しくない。どんなに才能のない子どもの作った作品であっても、親にとったらプライスレスなマスターピースだ。もちろん作った本人だって、昔こんなの作ったんだなーって懐かしく振り返ることがあるだろう。

  • 勉強で活躍できない生徒にスポットライトを当てる機会として

東京都では自尊教育というものも始まるけれど、勉強ができないけど絵が上手な子ども、歌がうまい子どもが活躍できる機会があることは、その子の自尊心のためにもすごく重要だ。それは何も食っていけるほどの類まれな才能でなくても、クラスの中でちょっと目立つレベルであれば「おまえすげーなー」と言われるには十分だろう。

  • 楽しめる時間として

もちろん楽しいと思う子も思わない子もいるだろうけど、勉強の息抜きができる時間としての機能もあるだろう。


そして本題に対する疑問は、才能があることと食っていけることって、現実そこまで直結してるか?ってこと。
個人的には「才能がなきゃ食っていけないんだよ!」よりは、「あきらめなければ夢は叶うよ!」のほうがどちらかというと現実に近いんじゃないかと思う。逆にいえば、才能があってもやる気と覚悟がなきゃ、食っていけるようになるのは難しいでしょ、って思う。そもそも、その世界で「食っていく」っていっても、道は色々ある。王道も邪道も。
だってさ、どんな楽器だって、一番演奏の上手な人が一番お金を稼いでるわけじゃないじゃん。一番歌の上手い歌手が一番レコードを売ってるわけでもない。
いや、ただの上手さだけの才能じゃない、人をひきつける魅力も含めて才能だ、それも含めて才能の有無なんてすぐわかるものだ、っていうなら、本当に?って疑いたくなる。もし教え子にブリーフ&トランクスがいたとして、音楽で食っていきますって言ったとき、「おまえらはきっと売れるぞ!」なんて言ってやれるものだろうか。
ブリトラは音楽で食ってるとは言えないだろって?じゃあPerfumeは?誰がPerfumeに対して自信もって、「あなたたちは7,8年やってれば爆発的にヒットする!」なんて言えただろうか。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081106/1225942524 を読んだとき、確かにそういやそうだったと思った。当時は、なんか浜ちゃん急にかっこよくなったなーなんて思ってた。あれは浜田雅功にもともと才能があったのか、それとも小室哲哉に才能がありすぎたのかわからないけど、浜田雅功が歌手をやってあれだけかっこよくなることを、どれだけの人が想像可能だっただろう。
美術に明るくないのでどうしても話が音楽寄りになるけど、基本的に同じことだと思う。要するに、草間彌生安藤忠雄のようになろうと思うのでなければ、飯を食っていく方法はそれなりにあるんでないのかなーと。


もちろん誰でも成功できるぜ!なんて意味じゃない。結局成功できる人間なんて一握りだけど、誰が成功するかなんてわかんないと思うよ?っていうこと。

教える側になるとはっきり分かる。美術だの音楽だのは所詮センスの世界なので、高校生ぐらいになると絵心のあるなしは分かってしまう。

オレは爆風スランプファンキー末吉さんの言葉が大好きなんだ。
「才能がなければ1000曲作ればいい。そうしておれはプロになった」