ロックンロールに蟀谷を

ここは墓。現在のブログは https://blog.oika.me/

「ショーシャンクの空に」が「刑務所のリタ・ヘイワース」でない理由

名作と名高い映画「ショーシャンクの空に」をようやく見た。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090525/1243219165
↑でid:aureliano氏が、この映画は原題「刑務所のリタ・ヘイワース」のままで映画化すべきだったと書いていて、それが気になって見たのだ。氏の勧める通りに、原作『ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)』を読んだ後で、映画ショーシャンクを見た。
結論からいうと、私は、良い映画じゃないかと思った。タイトルもこれでいいんじゃないかと思った。


<以下ネタバレを多く含みます>


原作の「刑務所のリタ・ヘイワース」というタイトルが優れているのは確かにわかる。しかしそれが優れているのは、あの原作の中においてこそである。
あの原作は、完全にアンディーの脱獄に向かって話が収束する。だからこそ、タイトルにすでにその伏線がはられていたと気づいたときの驚きが爽快なわけだが、映画「ショーシャンクの空に」の構成は多少事情が違っている。
例えば、原作にある、アンディーと同房だったノーマデンの存在と「すきま風がひどい」という発言が映画にはない。また、途中で一度ロック・ハンマーがボロボロになって新調するエピソードもない。さらに、ショーシャンクからの脱獄の成功例がいかに少ないかという話や、アンディーが脱獄した後の穴の中へ看守が入っていって、下水管の中で「ああ、くそ、こいつはほんとのクソだ」とかわめいたというエピソードも省略されている。バグズからフォラチオを強要されて拒むシーンなんかは忠実に再現しているにもかかわらず、である。
つまり、映画「ショーシャンク」が中心に据えたテーマは「アンディーの脱獄」ではないのだと考えられる。


では何か。それは、一言でいうならば「希望」、生きる希望だろう。
50年の刑務所暮らしの後仮出所となったブルックスの死については、原作では自殺とはなっていない。「出所するとき、やつは泣いていた」といった記述はあるものの、その最期については「貧困老人の収容所で死んだ」となっている。
終身刑を受けて服役した後に外に出る頃には、すっかり外で生活できない人間になっている。であれば、終身刑とは、「更生」とは何なのか。仮出所の許可がでなければ「残念賞」、ところが、許可がでる頃には、外に出ることが「残念賞」。その人生の、生きる希望とは何なのか。
この映画が、そこに焦点を合わせて作られたのは明らかだ。
映画を見終わった後で原作を読み返してみて、「希望はいいものだ」というセリフが原作にもちゃんと書かれていたことに気づいて、驚いた。それが書かれていたことが自分の記憶に残っていなかったことに驚いたのだ。
つまりこの映画は、原作に書かれているセリフをそのまま用いつつも、それがより深く印象に残るような、それが強い感動を引き起こすような構成になっているのである。これこそが、この映画が名作として長く愛されている理由なのでないだろうか。


ちなみに、実際のところ、なぜ映画の題を「リタ・ヘイワース」にしなかったのかということは、DVD収録の監督による音声解説の中で説明されている。
それによると、「刑務所のリタ・ヘイワース」で映画を撮るという話を聞きつけた多くの人が、リタ・ヘイワースの伝記映画だと勘違いして、リタ役を志願する手紙とかを送ってきたりしたので変えたらしい。
身も蓋もないw